2003.08.02 up

脳深部刺激術(DBS)の体験記のトップへ

DBS体験記 by S.M.

第1章 私がDBSを受けたわけ
 11年、私の病歴である。これから高齢になっても忘れないように「息子の中2の時だから、14才かな、だから、現在の歳から14を引いて11年」と覚えている。39歳の時だった。どうも右手が震える。それがいつまでたってもなおらない。震えることは1年前ぐらいから気づいていた。しかし、病気とは、思っていなかった。当時公立中学校の教師をしていた私は、毎日のストレスをどこへ持って行っていいのかわからないほど、ため込んでいて、胃の痛くなる毎日であった。一番反抗期の2年生担任で学級経営などうまくいくはずもなく、悪戦苦闘の毎日だった。だから、手の震えもストレスだと勝手に決めて病院にも行くことはなかった。いじめ、服装違反、家出、たばこと次から次へ問題が起こる。今も、私のP病は、ストレスからと本当に思っているところがある。
 それにしても、1年たっても震えは治らない。整体でマッサージを受けた時、病院に行った方がいいのでは、と指摘され初めて病院の門をくぐる。そして、2度目の診断で「P病」と診断された。当時は、P病など知るよしもなく、P病の薬が効いたことが妙に嬉しかったのを今でも覚えている。
 それから、11年間、主な症状は、右手の振戦であって、進行は、かなり遅いほうである。しかし、その分、薬はどんどん、効き目が薄れ、飲んでも、全く振戦が消えることはなくなってしまった。公務員の年功序列の社会ゆえ、論文発表の場が待っていたり、学級担任をしていると卒業式、入学式は、免れない。中学の卒業式での呼名の場では、体中が震え、声につまってしまった。わたしの病気を知っていた同僚が後に「あの時は倒れるのではないかと気が気ではなかった」と話してくれた。教え子たちは、「先生もぼくたちとの別れが辛かったんだね。声が震えていたよ」と感慨深そうに、誤解してくれたので、私も、「うん、うん」と思い切り嘘泣きをサービスしておいた。
 それからは、行事、イベントがある時は、普段より多めの薬を飲んで参加するようにした。そして気が付いてみると、1日アーテン2錠を3回、パーロデル2錠を3回、メネシット1錠を3回とかなりの量を飲むようになっていた。それに、イベント用の薬を飲むときは、上記の薬を一回分増やすことになる。アーテンなど8錠の時は、眠くて眠くて、いつの間にか、眠ってしまったことなどあった。車の運転中、この睡魔に襲われ、気が付くと、反対車線・・・生きた心地はしなかった。また、動作も緩慢になり、呂律が回らなくなる。考えようによっては、アルコールを入れた時のようで、快感でもある・・・・などと書くと不謹慎だと、しかられそうであるが、そういう状態で私は、薬が効いてきたと実感した。
また、その日によって効き始める時間がまちまちであるのには困った。授業参観や研究授業の始まる時間から、いつも効き始める時間さかのぼって薬を飲むのだが、その時間になっても、いっこうに効かず、ロッカールームに逃げ込み、さらに薬を追加して服用したこともあった。
 このように毎年、私は、表面的には、薬を増やすことによって、病気を隠し、健康をよそおっていたが、内心、今年は、どこまで進むのか、まだ仕事を続けることができるのか、薬の副作用は・・・・等々心配のみ膨らみ、人生の新しいページをめくることができないでいた。次のページめくってみたい。でもなにが待っているのか見るのがこわい・・・・まだ不安だけならば、失敗しないかと危惧するだけならば我慢もできるが、歩けない自分がそこにいたら・・・・私は、もの心ついてから熱があるときなど、繰り返し見た悪夢がある。それは、自分が歩けなくなる夢である。一歩進もうとするのだが、どうしてもその一歩が踏み出せない。「だれかたすけて〜」うなされ目覚める。いつか本当にこんな日が来るのではないかといつからか心のどこかで思っていたようなそんな気がする。
 わたしがDBSを受けようと思ったわけ、悪夢からの回避、人生の新しい1ページをめくりたい、ちょうど50歳という、年齢の節目も再スタートにもふさわしいと思えた。「えい!」かけ声と共に自宅から2時間の所のS病院に駆け込んだのは、平成13年度が終了しようとしている3月下旬春休みに入ってすぐのことだった。


第2章 いよいよ入院
手術を受けるにあたってまずは、病院をどうするか、関東では、DBSを行っている病院は、G大とS病院だけとそれまでの主治医から聞いていた。実は、そうではないことを後になってから知ったのだが。S病院が自宅から一番近いというだけの理由で、性急な私は、決定したのである。
 そして、主治医の決定、最初に診察を受けたM医師からP病専門であるとO医師の紹介があった。DBSを受けたい旨,話したところ、まず検査入院2週間ができるか聞かれた。私は,即座に「できる」と答えた。「それでは,5月の連休明けに入院してください,それでは…」ちょ、ちょっと待ってください。私は、1年計画で動いている。もっと聞いて帰らねば療養休暇がとれない。代替講師も早めに探さなければならない。焦る私は、やつぎばやに質問した。「手術はいつごろ…」「入院はどのくらい」「復帰までには」最後には手術費用のことまで聞いてしまった。O医師は、あくまでも穏やかに冷静に「検査の結果次第で手術をするかどうか決めましょう。まだ軽症で手術必要ないかもしれませんよ」 「ええ〜それは困る」と思いながら5月入院のための診断書をゲットして帰路に着いた。 
 武蔵野線を使っても、片道2時間は、少々きつかったが、予備知識のない私には、他に頼る病院はなかった。かえってそれで良かったとまもなく思うことが出来た。それは、5月に検査入院をした時に出した結論だ。
 初めての入院生活は、検査もさることながら、人間関係、周りの様子、見るものすべて、初体験、退屈はしなかった。2週間が、あっという間であった。検査も辛いものもなく、医師も看護師も親切で、様々な患者さんにも会えて、P病に関する情報も集まり、有意義であったと思う。また、検査のない日は、リハビリで竹細工やレザークラフトなど教わり、お土産まで作ってしまった。ちょっと図々しかったかな・・・。    
 しかし、ここで私はとんでもない勘違いをしていたことに気付いたのである。それは、私が受けようとしていた手術は、定位脳手術の凝固術と思いこんでいたのである。今まで主治医であったK医師はそうだと言っていたし、1997年10月の朝日新聞に連載されていた手術もそうであった。現代の医学が日進月歩、目まぐるしく進歩していることを忘れていたのだ。だから、隣のベッドの人の胸の発生器の入った皮下のポケットを見せられた時は、すごいショックだった。
 そして、退院の日、O医師より検査結果と手術について丁寧な説明があった。以前は、凝固術なるものを行っていたが、それは、一度おこなうとやり直すことができない、DBSならば取り出すこともできるし、成功率も高い、症状が良くなっている人も多いとのこと。後でキャンセル有りと言うことで、11月に予約をいれた。もちろん、その時点では、あの胸の傷跡を思い出して「あんな大きな発生器を胸に入れる手術なんてめっそうもない」と思っていた。
 そして、それから数ヶ月、また、右手の振戦におびえる毎日が帰ってきた。8月の下旬、私は、今度こそ手術を受ける決心を新たにして、再び、O医師を訪ねた。決意を自ら伝えることによって、決心を揺るぎないものにしたかったので、あえて、電話で済ますことはしなかった。
 11月20日、DBS手術、この日に向かって、あらゆるものが私のなかで動き始めた。
                
 勤め先では、9月の運動会が終わると、早速、講師が決定、仕事の引継を少しずつ済ませていった。
 そして、遂に11月11日、入院、手術が現実のものとして、迫ってくる。おかしなもので、この日を待ち望んでいたはずなのに、いざ、当日が訪れると、緊張している自分に驚いてしまう。
 5月の検査入院は、神経内科であったが、今回は、脳神経外科への入院だった。
「主治医のIです」と人なつっこく笑うI医師、まだ20代と思える若さに驚いたが、この先、辛い時、ことあるごとに声を掛けてくださり、私の稚拙な質問にも誠実に答えてくださった。
 手術前の検査は、5月にすでに済ませてあったので、今回は、胸部写真、呼吸機能、心電図、採血、尿検査程度であった。
 これより以下は、入院中に書き留めた日記を基にまとめたものである。
 枕が変わると眠れない私は、今回も何度も目覚め、寝不足状態で朝を迎える日が続いた。入院2日目、O医師が病室を訪れる。今夜7時にカンファレンスが行われるとのこと、思っていたより、多くの医師たちの前で質問ぜめに会うこととなった。
 「今一番困っていることは?」「今薬は、何をどのくらい?」「歩いてみて」「指を動かして」「どういう時、一番ふるえるか?」質問は、15分ぐらい続いただろうか、「もういいですよ」と言われ、ホッとして病室にもどる。医師たちの議論の中心は、右手の振戦だけが、今出ている症状なのか、薬が効いてない時は、どのくらい進行しているのかという点であるらしい。振戦のみならば、視床に刺激を入れた方が有効であるが、視床下核の方がP病全体の症状に有効であるとのこと。だから、O医師は、これから、進行したときのためにも、まずは、視床下核に刺激を挿入して、効果が無ければ視床に入れ替える事を提案したと、後に手術をしていただいたT医師から聞いた。T医師は、「雰囲気を和やかにしてくださる先生ですよ」と看護師も言っていた。温厚で優しい先生、冗談を言って緊張感をや
わらげてくださる。手術が大変上手い先生として有名とも聞いた。
 昨夜のカンファレンスでの話し合いの結果、本来ならば3日前ぐらいから薬を飲まないようにするらしいが、私の場合は、薬が切れた時の状態を知りたいので明日から飲まないで症状を観察するとのことだった。
 入院3日目、家族である息子も同席して手術について、T医師から話を聞く。これが、インフォームドコンセントというものらしい。丁寧な説明で、手術に伴う危険性、成功率、回復まで、その後の治療法、また手術以外の選択肢について等話してくださる。O医師から聞いた話とだいたい一致しており、安心してお任せできると確信することができた。
 10年間毎日欠かすことがなかった薬をばったり止めた時、どうなるか、自分自身も知りたかったが、思っていた以上に右手の振戦はひどく、まるで私とは別の人格を持った生き物のように私の意志と関係なく動きだすのである。ベッドの上でも身置き所に困る。どういう姿勢が一番楽なのか色々動いていると益々落ち着かなくなる。ベッドに居るより、いている方が楽かも・・・と思い階段を昇ったり降りたりしてみたが、右手が気になる。売店でお茶を買って1000円を出すことまでは、自分でできたが、おつりを財布に戻すことがどうもできそうにない。初めて些細なことを人に頼んでしまう。売店の人はきっとこういうこと慣れているのであろう。何でもないように財布のファスナーを開けて、小銭を入れてくれた。
 ナースコールも初めて押してしまった。怪訝そうに現れた看護師に、すでに筋肉は疲れ果てているのにもかかわらず、まるでパラサイトのように動き続けて私を苦しめている右手のことを訴える。訴えてどうにもなるものでもないことは、わかっているのだが、話すと気分的に楽になる。看護師は、「大変だけどがんばって、私たちにできることは、手伝うから我慢しなくていいからね」とあくまでも優しい。こういう時は、優しくされることが何よりも嬉しい。その夜、初めて、睡眠剤を飲んで寝た。
 薬を止めて4日目の朝、目覚めと共に右手のパラサイトも目覚める。デニーロの「レナードの朝」を思い出す。新しいLドーパなる薬によって、何十年ぶりに動けるようになったP病に症状が似た脳炎の人たちがそれぞれに生活を楽しむのだが、それも束の間、すぐに薬が効かなくなり、またもとに戻る話。薬が効かなくなった時のデニーロ演じるレナードの手の震えはひどいものだった。映画を見たとき、かなり誇張されていると思ったものだが、今の私は、あのくらいひどいかもしれない。振幅20〜30?あるのではと思うくらいだ。
 9時過ぎに、I医師が、12時前には、T医師が声をかけてくださる。そこへO医師も顔を出して、「もう薬飲んでいいですよ」といとも簡単におっしゃる。えーそんなもんなのーでも嬉しい、その時のO医師は、私にとって救世主であった。もう薬を止めた時の状態がわかったので薬を飲んでよいとのことだった。
 現金なもので、薬を飲み、振戦がなりを潜めると、食欲も出てきて、しっかり食事もとれた。夜はTEL魔に化して、方々にTELしまくった。薬のありがたさを実感した4日間であった。T医師とO医師の会話から、薬がきいてない時の状態は、右手振戦と左は歩くとき、腕の振りがないことや動きがやや緩慢になるところから寡動、筋固縮らしいことがわかった。今まで右の症状ばかりと思っていたが、左の方にも薬が効いていたとのことだった。
手術の前日、3時過ぎ、床屋さんが現れる。いよいよだと思うと、手術への恐怖心に押しつぶされそうだったので、努めて明るく振る舞う。床屋さんは、「気の毒だ」と口では言うわりには、バリカンの手は、無情に動き、アッという間に、カミソリも入れて、つるつるにそり上げてしまった。そして、「坊主にすると、みんな赤ん坊、生まれたての姿に戻るから坊主の似合わない人はいないんだよ。」なんてことを言って帰っていった。
 その夜、鏡を何度も何度ものぞいてみたけれど、やっぱり坊主は、似合わなかった。床屋さんの言うことは、真実ではないと、密かに反抗してみた。
 明日に向けて、再び、薬をストップする。


第3章 ついにDBS体験する
 いよいよ手術の日が現実に私のもとにやってきた。
 入院10日目のことだった。息子が8時にやって来る。あわただしく、着替えをしたりトイレに行ったり身のまわりの準備をする。I医師が、間違え防止のため、名前の入ったブレスレットをはめに来る。まわりの人たちががんばってと激励してくれる。中には知らない人もいる。ペーパーで作ったかわいいトトロ人形も知らない人にいただいた。
 まず手術室において、頭を固定するためにフレームを装着する。「痛かったらいってください。」と何度も言われ、私も何度も「痛い痛い」と言った。その度に局所麻酔を打ってくれるのだが、その麻酔の注射もちくちくと痛かった。最後に固定された時は、息が止まるほど激痛が走る。「痛い」と悲鳴に近い叫びを上げてしまう。
 その後、MRI室にて視床下核の位置を確認するために、撮影をする。そして、再び手術室へ向かう。頭蓋骨に穴を開け電極を挿入、穴を開ける時のあれは、ドリルだろうか?ヒューンヒューンと部屋中に響き、首から背骨にかけて、不快な鈍痛がガンガンとやってくる。この時、全身麻酔ならどんなに楽だろうかと思わずにはいられなかった。
 そして電極挿入、さあ・・・・・ここからが、大変・・苦しい時間が延々と流れていく・・・。電極の位置が右手の振戦に有効であるかを確認するため、まずは、私を緊張させ、振戦を出させなければいけない。そのために「100−7」「93−7」と7を引いていく計算を何十回と繰り返す。途中で、もううんざりして、計算できなくなって立ち往生してしまう。頭はガンガンする上に、算数は苦手、まるで拷問を受けているようだ。「算数は、苦手なんです。」やっとのことで、これだけ訴える。「それでは、国語にしましょう。早口言葉を言ってください」あの声は、たしか、O医師、この場におよんでまだ私を苦しめるつもりか・・・・・・「東京特許許可局・・・・はい、言って」「普通の時でも言いにくいのに、こんな、頭蓋骨に穴開けて言えますか。言えません」と心のなかで叫びながらも私は力の無い声で「とうきょう・・・・・・・とっきょ・・・・きょか・・・きょく」とちょっと怒った声で言っていた。それから「青パジャマ黄パジャマ・・・・・・」「瑠璃も針も・・・・・・」
としばらくおかしな早口言葉は、続いた。その間、看護師とI医師は、寒くはないか、喉は渇かないか、と細かく気遣ってくださったことが、ありがたかった。
 そして、私は、不本意にも早口言葉や計算ぜめに会ったことばかりに気を取られていて、右手の振戦がどうなったか、い じ わ る な医師たちが(ごめんなさい、その時は本当にそう思ったのです)どんなことをどのように検討しているのかよくわからなかった。
 「これでいきますか。いいですね。ぴったりだ。」T医師の声、やっと終わりそうだ。
 縫合が始まる。「ブスッ ブスッ」局所麻酔を打ちながらかなり無造作に縫い合わせているように思える。「もう眠くなってもいいのだから○○をつかいましょう」I医師の声が提案、「助かった、先生ありがとう」その麻酔を打つと眠くなり、痛みが遠のく・・・・・・白い部屋、どこまでもどこまでも白い部屋が続く・・・・その部屋を私は、さまよっている・・・・・どのくらいさまよい歩いただろうか。アッと言う間のようにも思える。我に帰ったとき、「終わりましたよ。手術は、うまくいきましたよ」「ありがとうございます」やっと一言言うことができた。
 そして、またCTへ向かう。廊下に出ると、姉の様に育った従姉妹の顔が見える。その途端、不覚にも涙が止まらなくなる。こんなに泣けたのは、何十年ぶりであろうか。
 私の実家は遠方であり、それをいいことに両親へのカミングアウトをまだ済ませていない。年老いた両親に知らせるべきか、悩むところである。大変な心配性の両親を知る者は、「知らせない方がいい」と一応に言う。そんなわけで、心細いであろう息子のために、一番近くに住む従姉妹に来てもらっていた。従姉妹も高校の教師をしていて、忙しいなか仕事を休んで駆けつけてくれていた。その後も1ヶ月の入院中、心つくしのお弁当を作って遠路藤沢から訪ねてくれ、私は、大いに感謝感激したものだ。
 そして、私の手術、無事終了、その後T医師、I医師が何度も病室を訪ねてくださり、術後の様子を見てくださった。T医師は、私の手を握って「大変な手術だったのによくがんばった」と優しく声をかけてくださった。O医師は、なぜかちょっと遠慮した雰囲気でやってきてカーテンごしに静かに「どうですか?」と声をかけてくださる。T医師の説明の中で、O医師は、電極をどこに埋め込むか計算で引き出す名人と聞いている。改めて、すばらしい先生方に手術をしていただき私は、ラッキーだったこと感謝したい。結局、朝9時に病室を出て、4時過ぎに帰ってくる。
それから、一週間は、頭痛に悩まされた。脳は、水に浸かった豆腐のようなもので、手術をすることによって、水が外に出るために頭痛がするのだそうだ。頭を下にすると痛いのでなるべく下に向けないようにして過ごした。ベッドの下に落とし物をしても、お行儀悪く頭は上を向いたままで、足を使って拾ったものだ。
 手術の翌日には、歩いてトイレにも行くことができ、頭痛は相変わらずしたが、右手の振戦が確実になくなったことが、不思議で嬉しかった。薬は、明くる日から再開する。最初は、手術前と同じ飲み方をした。
 そして25日、全身麻酔にて、刺激装置埋め込み術を行う。全身麻酔は、何と楽であろうか。気付いたら全部終了していた。しかし、術後は、局所麻酔の方が楽だった。吐き気はするし、どうも気分がすぐれない。電極埋め込みの時は、術後の熱も出なかったのに、今回は、7度8分まで、一回だけだが上がる。もっともすぐに下がったけれど。
 また、全身麻酔のため、自分がどのように手術をされたのか、さっぱりわからない。電極と発生器とどのようにつながっているのか、不思議でたまらない。朝晩、点滴に来るI医師を捕まえては、質問した。彼は、いやな顔ひとつしないで、私でもわかるように、時には紙とペンを持ってきて図を描いて説明してくれた。
 薬は、以前通り飲んでいたが、右手が、自分の思いとは、反する動きをするようになる。ふわふわと大きくうねるような動きである。これが、不随意運動なのだろうか。初めての動きに不安が過ぎる。
 それにO医師からすぐに回答があり、薬を減らしてもらえることになる。パーロデル2錠×3回、メネシット1錠×3回、アーテン1錠×3回、手術後1週間経った
11月27日のことであった。
 そして、この頃からだと記憶している。私がハイ状態になったのは・・・とにかくよく笑った。手術の傷跡が開くのではと思うほど、みんなで冗談を言い合って笑った。
 12月に入って、O医師から、また、薬を減らすことを言い渡される。メネシット半錠を3回、アーテン、パーロデルは各1錠を3回とのこと、何だか不安に感じたが従うことにした。
 12月2日、頭と胸、同時に抜糸、頭は、傷の状態、あまり良くないとのこと、水が溜まっているところがあるので、ガーゼをあてて、水を吸収させる。胸の傷はちょっとショック、しかし、後でかなりきれいに回復するそうだ。ほんとかな?
 12月3日の回診で、T医師、「若返った、若返った」と何度も繰り返して誉めてくださる。と言うよりもお世辞かな。同意を求められたI医師「手術前は緊張していたんですよね。今はホッとして明るいですよね。」そうかもしれない。緊張感がほぐれてハイ状態、自分でも納得する。見舞客には、手術の詳細を話す。それも楽しそうに・・・「あの時、ハイだったのには、驚いた」と後日言われてしまった。以後ハイ状態は、1ヶ月は続いたような気がする。
 12月4日、神経内科に引っ越しをする。外科の看護師たちが「お元気で」と声を掛けてくれたのには、感激、・・・「お世話になりました。」と握手をして別れる。
 神経内科は、5月に2週間ばかり入院していた所、古巣に帰ってきたようなそんな懐かしさを感じる。また、5月に同室だったWさんがまた同室となったのは、心強かった。
外科と比べると神経内科は、静かに病棟全体が眠っていた。私が入った病室は、ナースステーションから一番遠い部屋でデイルームの隣、軽症の患者が入る病室に思えた。しかし、実際は、私一人が軽症だった。医師も看護師もめったに現れない。「ここは、寂しいね」とWさんに話すとそんなに頻繁に看護師は、来てはくれないかもしれないが、いざとなったら、すぐに対応できる態勢になっているから安心だと言う。
 ある早朝4時に目覚め、することもなかったので、病室探検に出かけた。そこには、真剣に働く看護師の姿があった。歩けない患者を車椅子に乗せてトイレに連れて行ったり、おむつを替えたり・・・それは、なぜか音と色のない世界だった。辛そうにあえいでいるのは、看護師の方、苦しそうな息づかい、朝の張りつめた空気を伝わって私の心を揺さぶる。私の足は、黙って病室へと向かっていた。
 12月6日、外泊の許可が下りたので、急いで帰宅、一晩自宅で過ごして、また、病院へ直行・・・・退院の14日まで、ハイ状態のまま、脳外科と神経内科を行ったり来たり、右手が震えないことが嬉しくて、しっかり腕を振って歩き回った。
 その間に変わった事と言えば、9日に東京を中心に大雪が降ったぐらいかな。下界は、思いがけない大雪に大騒ぎであろうが、その下界に降りることもない私たちは、思い切り雪景色を楽しんだ。武蔵野の雑木林の雪化粧に、病院の厨房からもくもくと煙が立ち上がり、どこからが雪煙かわからない状態、融合しあって、日本画の世界をかもし出していた。かわいそうな病人である私たちへの天からのプレゼントだったのかもしれない。ハイ状態の私は、そんなことを思ったりした。
 退院の前日、何でもできるような錯覚をしてしまった私、大きな失敗をしでかしてしまった。体力検査をなんなくパスして最後に、思い切り走るようにと言われた私、冷静に考えれば、1ヶ月間、運動などしていない。ストレッチもしないで走れるわけがない。なのに、走ってしまった。いや、走ってはいない。走ろうとしてしまった。そして、スタートのその瞬間、足がもつれて、思い切り転んだのである。しかし、無意識に胸の発生器は、守っていた。その分、腕を思い切り床にたたきつけてしまった。
はしゃぎすぎた私の入院生活は、こうして終わった。半年経った今でも左腕の付け根が痛む。上まで挙がらない。あの時の後遺症だろうか。
2,3日様子をみて退院しては、というO医師の言葉を振り切って14日、ついに退院。その時処方された薬は、メネシット、アーテン、パーロデル各1錠を朝夕2回であったが、自分で管理するようにとのことだった。刺激の電圧は、2.4Vだった。ただ脳手術をするとほとんどの人が残るという出血があるので1ヶ月後にCTを撮るとのこと、これもほとんど吸収されるので心配しなくても良いとのことだった。
そして、1ヶ月後、予告通り出血もなくなり、心配も消えた。ただ、また右腕に妙な動きが始まった。これは、刺激の効き過ぎとのこと、2.0Vに落として解決する。
2ヶ月後、2.2Vの刺激に調節、今に至っている。薬は、飲まなくても、そんなに支障をきたすことはないが、不安なので、メネシット半錠、アーテン、パーロデル各1錠を朝1回のみの服用にしている。


第4章 今 わたしは
半年の療養休暇を終えて2003年4月、職場復帰をすることができた。
4月当初は、疲れやすく、夕方、帰宅するとくずおれるように横になってしばらくは、身動きできないそんな状態の時もあった。しかし、徐々に慣れてきて、元気を取り戻してきた。
入院時、みなさんに親切にしていただき、私も職場復帰後は、優しい先生になろうとかたく決心していたのに・・・・なんとなんと人は、そう簡単に変われるものではないらしく、相変わらず、いたずら坊主を「コラ〜」とばかり追いかけているわたしがそこにいる。
今のところ、刺激の効果は、変わらず、右手の振戦は、夕方時々でるぐらいである。何よりもホッとしたのは、会議の発表時、緊張して声が震えたり、強ばったりしたのが治り、普段の調子で話すことができ、発言が恐怖ではなくなったことである。
今は、夏休みの海外旅行の準備を密かに進めている。刺激の効果は、いつまで有効かわからないとのこと、この先、何年働けるか、不安な面もあるが、今は元気な私である。この元気は、ちょっと勇気を出してDBSを受けた私への「ごほうび」だと思って今しばらく気ままに生きていきたい。
S病院のO先生、「私でも海外旅行できますか。」と聞いた時、「もちろん、どこへでもいけますよ。」と力強く言っていただき、どんなに勇気付けられたことか、T先生、I先生、看護師さん、大変、お世話になりました。仲良くなった患者さん、自分の方が苦しいのにいつも気を遣ってくれたKさん、毎食後おいしいフルーツの差し入れをしてくださったIさん、入院最後の夜、おせんべいでお別れ会をしてくれたMさんWさん、この半年の間にお会いした素敵な方々に感謝して、この体験記を終わりにしたい。

あ そうそう、人生の新しい1ページをしっかり開き、自分を確かめることができた。
そこにいた私は、両足でしっかり歩いていたのは言うまでもない。それはまた、音も色もある世界であったこと付け加えておきたい。

2003.08.01

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