2003.07.01更新

脳深部刺激術(DBS)の体験記のトップへ

フランスから
脳の音を聞きながら
Listening to My Brain
フィナンシャル・タイムズ記者
マイケル・ホールマン /著

  FT Weekend 2001.Mar.31-Apr.1 より
この記事は。フィナンシャル・タイムズ社 http://timeoff.ft.com/weekend と著者のホールマン記者の特別のご配慮により翻訳の掲載が可能になりました。



 フィナンシャル・タイムズの記者マイケル・ホールマンはパーキンソン病に対する薬の効果が弱くなってきていた。彼は今年の始めに手術を受け、驚くべき効果で生活が一変した。パーキンソン病の症状はほとんど消えてしまった。
ここに彼の11時間に及ぶ手術の記録を記す。手術中彼の意識は保たれたままであった。

グルノーブルの街は雪でおおわれたアルプスの山々で囲まれている。私は今、その山々から昇る陽を病室から眺めている。今日が残された人生の第一日目であり、一瞬、一瞬を大切に生きたいと思う。
手術を終えて、症状が改善され、16年間入っていた恐ろしい監獄から釈放された気持ちだ。ほとんど奇跡の業ともいえるグルノーブル大学病院の脳外科チームの手術は11時間を要した。その間私は意識のあるままで、頭が鉄製のケージの中に、ボルトで固定されていたため、閉所恐怖症になるところだった。

1986年、モーリシャス諸島の浜辺に面したホテルのベランダで絵葉書を書いていたとき、 それまで"良性本態性振戦"といわれていた右手のふるえが実になにかとても不吉なものであることがわかった。字が震え、小さくなるだけでなく、ひとつの文章を書き終えることさえ難しくなった。まるで私の手がすぐにバッテリーがきれてしまうモーターで動いているかのようだった。

数週間後、その年の8月、40歳になったばかりの時、パーキンソン病だと告げられた。神経系の変性疾患で、イギリスでは12万人以上の人がかかっている病気であり、ドーパミンという身体の動きをコントロールする物質が足りなくなって起こる病気である。

1960年代のレポドパの発見によって、パーキンソン病の治療は画期的に進歩した。しかし、病気の進行を止めることは出来なかった。
脳の組織の破壊が進むにつれ、薬の量が増え、薬の副作用で不自由になる。特に身体が勝手にねじれたり、くねったりするジスキネジアとよばれる副作用が出てくる。

パーキンソン病と診断されて16年経って、歯を磨いたり、ワイシャツのボタンを留めたり、電話に出るという日常の動作が至難の業となった。ジスキネジアがとても目立ってきた。私の足は大きくスイングし、同僚を突然蹴飛ばしていた。
私は昼食の招待を断り始め、記者会見にもあまり出席しなくなり、取材に出る回数少なくなった。フィナンシャル・タイムズのアフリカ編集主任をしていたが退職せざるをえない状態だった。



私の人生を変えた1本の電話が入ったのはちょうどそんな時だった。パーキンソン病の症状を改善する脳手術には長い歴史があったが、効果はあまりあがっていなかった。最も良く知られているのは淡蒼球の脳細胞をレーザーで焼ききる手術(淡蒼球破壊術)である。しかし脳細胞は一度破壊されると元には戻らない。ドーパミンを産出する脳細胞の再生の研究に力が注がれるべきで、それが新しい治療の開発へとつながるのだ。

80年代の終わりに、グルノーブル大学病院のアラン-ルイ・ベナビッド教授とピエール・ポーラック教授は新しい技術を開拓し、すばらしい成果を上げた。脳視床下核刺激術というもので、脳細胞を破壊するのではなく、脳の奥深く、右と左、両方に電極を埋め込むのである。

電極にワイヤーをつないで皮膚の下に埋め込み、鎖骨の下に埋め込んだペースメーカーの装置につなぐ。そして患者の調子によって調整する。視床下核に低いヴォルテージの電流を流すことにより、副作用もなく、レポドパと同じ効果が得られる。このことを誰も上手く説明できないのだが、何はともあれ申し分なく機能する。

イギリスから手術を受けにいったのは私が初めてだろう。なぜグルノーブルを選んだか。
10年経った今では、視床下核刺激術はオックスフォード、ブリストル、ダンディー、ロンドンでも行われている。しかし150件もの手術が行われてきたグルノーブルと比べると経験が浅かった。
イギリスでは、フランスと違って、「症状は改善されるが、病気自体が治るのではない」という理由から、国民健康保険が利用できないのだ。ほとんどの私的保険機構でも同じ見解を採っている。

アンドリュー・リースというロンドンの専門医に勧められ、最初にベナビッド教授と、次にポーラック教授と受診の予約を取った。私は運が良かった。パーキンソン病患者の中で刺激術に適合するのは10−15%くらいで、幸運にも私はその中の一人だった。

しかしもうひとつハードルがあった。200人もの沢山の患者が順番を待っているというのだ。その中には3年以上も待っている人もいる。その中に名前を連ねなければならない。

昨年のクリスマスが近づいたころには、編集局の電話が鳴るたびに受話器を持ち上げるのがやっとという状態だった。ゆれ(震えのことを自分でそういっているのだが)がひどかった。話すことにも大変な労苦を要した。クリスマス前のパーティの誘いの電話がわずかにあるくらいだったが。

そのような状況のなかで出た電話で「ベナビットですが2月27日に手術に来れますか」という声を聞いた。8週間後私はロンドンのヴィクトリア・ステイションを発った。母と、伴侶であり、友人であり、FTの同僚である、ミケラ・ロングが一緒だった。私の人生で3度目の旅立ちだった。結果がどう出ようと全てが変わるだろうと思っていた。

17歳の時故郷の小さな町を出て、当時ローデシアにあったグゥエロからアメリカへ渡り、オレゴン州のクラマス・ホールでホームステイの1年を過した時に世界が広がった。

第二の旅立ちも同じ道をたどったが、その旅で重要なことはホワイト・マイノリティ、ローとの衝突だった。スミス政権によって過激な学生のレッテルを貼られグゥエロを出ることが出来なくなった。アメリカを出てエディンバラ・大学の大学院に戻るということを条件に拘束を解かれた。
そして今、人生を変える新しい旅が始まる。



2月15日 木曜日
病院へ着くとフィナンシャル・タイムズからの大きな花束が私を迎えてくれる。友人や同僚たちの心遣いがこんなに有り難く、励みになったことはない。「いつ泣き出すかしら」とミケラが言う。
16日 金曜日
薬を飲まずに1日が始まる。1日8回のんでいたドーパミンをのまないでいるのが恐ろしい。薬の切れた麻薬患者のようだ。この日最初に飲んだ薬が効いてきたとき時、筋肉が弛んでいくにつれ、素晴らしい解放感を味わった。しかしジスキネジアがすぐ始まった。

17日 土曜日
ポーラック教授の診察が朝一番にあった。また薬は飲めない。私は震えながら、足を引き摺って小刻みで歩いて教授の後についていく。テレビのモニタ−と、三脚とビデオカメラがおいてあるだけで家具のあまりない部屋に入った。
教授とミケラに向き合って座り、いつもやっているテストをいくつかやった。指で鼻の先を触ったり、出来るだけ早く足を上げたりおろしたりの手足を動かす動作をした。
次に色々な質問をされた。よだれを垂らすか?失禁はないか? 鬱状態にならないか? 記憶力は落ちていないか?

18日 月曜日
心理学者との面接。自己紹介をして軽いジョークを言われ、それから形式的な質問をされた。イギリスの首相は誰か。今日は何月何日か。私は優秀な成績で合格した。
その後さらに難しいテストに移った。あまりいい気はしなかった。パーキンソン病の体の動きを診るテストにはある程度までは協力は出来るけれど、知的機能が冒されているという考えには耐えられなかった。

19日 火曜日
もうひとしきりテストがあった。また薬は飲めない。私はなんとか髪を洗い、着換えることが出来たので自分で満足した。若い大学院の学生が午前9時15分に病室にやって来た。彼は私が震えているのを見て、ミケラに向かって車椅子が必要かと 訊ねた。どうして私に訊ねなかったのか。こういうことは初めてのことではない。つまり肉体的な障害はある種の知能の衰えを伴うという仮説によると、車椅子を必要とする人間は自分の意志を伝えることが出来ないということになるのか。
ミケラは私が見るからに簡単なことをするのに苦労しているのを不思議そうに見ていた。学生が車椅子を押した。後でミケラが代わった。私はミケラが少し緊張しているようすなのでうれしかった。
モニタ―スクリーンにつながれているマットの上にアルファベットのeという文字を書くテストがあった。ミケラは数回その文字を書いた、はっきりとして、確かな文字だった。震えた形跡もない文字がスクリーンに写し出された。「君のeが好きだよ」といった。2人とも笑いころげた。

23日 金曜日
3つある中の最初の手術で頭に4つの穴を空け、 チタンのボルトをが差し込まれた主となる手術が行なわれる時、私の頭はフレイムの中に入れられ、ボルトで留められる。ロボットを使って電極を中に入れる時、動かないようにするためだ。

27日 木曜日
私の復活の日。恐怖を感じながら車椅子で手術室に運ばれた。手術そのものが恐かったのではない。前日、頭のケージを初めて試してみた。脳のスキャン検査をする前に私の頭は装置にボルトで固定された。そうすると、私の身体が入れられるベットのようになったトンネルのなかで、動かないようになる。数分で私は、肩の筋肉が痙攣を起こし、今までに経験したことのないような痛みで締め付けられた。60分のスキャンを疲れと不安のなかで終えた。もし痙攣がまた起こると私は少なくとも12時間続くと聞かされていた手術に耐えられないのではないかと思った。
今日はおよそ20人の医師などが手術に参加する。私の希望でミケラとドキュメンタリーカメラマンのピータ−・チャペルと彼の音響効果係のアンドレの3人が記録に撮る。その他に、ポルトガル、イタリア、アメリカからの脳外科医も立ち会う。
電極が視床下核の正しい部分に届いたら反応出来るよう意識のあるままである 。正しい場所に到達すれば、私の震えは止まるだろう。
外科医が頭蓋骨に穴を空けるドリルの音は当惑するほど大きかったが、痛みはなかった。穴を焼灼する時痛みはあったが、気分をすっきりさせるともいえる痛みだった。痛みによって現実に戻ることが出来た。
幸いにも怖れていた痙攣は起こらなかった。付き添いの理学療法士の腕が良かったのだ。
最も興味があったのは視床下核に深く電極が埋め込まれていく時に脳の音を聴いたことだ。それは大海の音、とうとうと流れる大河のようでもあり、畏敬の念を起こさせ、感激させる音で、私の存在の証であり、また、かって経験した宗教的な経験に近いような、人類の音とも思えた。
途中で皆は頭のケージの中にボルトで私を留めたままで昼食を取るために出て行くが理学療法士が私に付き添って残った。医師と会話を上手くすることは出来なかったが、声の調子は理解できた。それはまるで演劇の初日に上演が旨く行った時の幕間に聞く明るいざわめきのようだった。舞台の上にどのくらいいたか考えた。6時間だ。
もうあと6時間で私は解放されるのだ。
手術が終わりに近づくと外科医は私にフランス語で話しかけながら終える。何とか理解できた。イギリスの農業政策の不十分な部分、ECの共同農業政策、フランス政治の左派、右派の伝統的な分割の崩壊の嘆き 等…」"第三派"というのはフランス語で何と言うのだろう。
ケージから解放される時が来た。私はこの上ない幸福感を味わった。ボルトが外された時カメラがまわっているかどうか確認した。この瞬間をカメラに収めたかった。私を11時間刑務所に閉じ込めていた人たちが今私を自由にする。ちょっと古臭い表現だが、思いつく一番いい表現だ。

28日金曜日
午前5時、手術を終えてから12時間も経っていない。アルプスの山々が夜明けの光に照らされ、くっきりと浮かび上がるのが見える。4時間後、アンドレとピータ−とお別れのコーヒーを飲んだ。その後、母を驚かしてやろうと、彼女のいるホテルまで15分ほど歩いた。無断で出歩いたことで不評を買い、次の日から4日間病院に拘束されることになった。



 4週間の滞在で私はフランス語圏の人間になり、ヨーロッパびいきになった。会話だけは別だったのだが…
滞在中、グルノーブルのフランスレジスタンスの博物館を見た。そして、フランスの医療制度の質の高さを体験した。
フランスに滞在中、だれも私をマイケルとは呼ばなかった。いつも「オールマンさん」と呼ばれた。イギリスでは看護婦から保険の勧誘まで初対面でファーストネームで呼び合い、うわべだけの親しさを表すのと対照的だ。
どんなお祝いをするのか。休暇をとるのかと訊ねられた。確かに休暇をとるだろう。しかし祝福は苦しい生活が普通の生活になった時から始まった。
とりわけ、1日に30錠以上の薬を必ず飲まなければならない生活から解放されたことを祝う。今は8錠に減っている。それだけではない。
ドーパミンと、ドーパミンの吸収をよくして尿の色を驚くような色に変えるコムテス(エンタカポン)も飲まなくてよくなった。ジスキネジアは消えた。関節の痛みも無くなり、この10年で初めて夜通し目が覚めずに眠れた。
しかし治ったわけではない。私はまだパーキンソン病患者だ。頭が痛かった。疲れ易く、それから刺激術で消えるだろうといわれていた震えがまだ残っていた。5月の半ばにペースメーカーの最初の微調整のためにグルノーブルへ来た時に消えることを願う。

グルノーブルで手術を受けるものの皆が症状が改善されるにしても、必ずしも皆が私ほど上手く行くとは限らない。私は比較的若いし、刺激術に適合していた。

グルノーブルの医師団からうつ傾向になる危険があるといわれている。例えば家族の者が毎日来てくれるとかいった気遣ってもらえる存在で何年も過ごした後、ほぼ通常の生活に戻るのは厳しいものがある。当然のことだ。パーキンソン病であることは助けにもなる。フィナンシャル・タイムズの論説記者としての仕事を果たさないことや誰かが何らかの打開策を出そうとして誘われた時食事を断ったりする言い訳になる。

もしうつ傾向になれば立ち向かう準備は出来ている。
さしあたっては手術に関する情報を広め、もっと安く手術が受けられるように働きかけたい。フィナンシャル・タイムズのように寛大で同情的な職場に勤めていない限り、20,000ポンドという費用は高すぎる。
しかし、採算はとれる。薬の減量はイギリス国民健康保険にとって年間3,500ポンドの節約になる。
私を自立できる状態においておけば社会福祉金が年間で5,000ポンド節約になる。
私が職に就いているなら年間数千ポンド税収入が増える。

「さてどこか悪いところがあるかい」
私の運のよいところを話した後、エジンバラから電話をくれた友人に訊ねた。
「マイケル、悪いところなんてないよ」彼はきっぱりと答えた。
「自分達の年齢(2人とも50代半ばだが)だったら友人の癌などの悪い知らせを聞くのに慣れているじゃないか。君のはいい話しだよ。よかったじゃないか。





 この記事が掲載されている新聞をプレスクラブの記者の方と図書室の方が送って下さいました

2001.4月NEWS digestに掲載 ●11.10にINDEX1に移動 ● 原稿担当●ISOISO

DBS専用掲示板へ
感想をお聞かせください


Apple Homeへ