2003.07.24更新

脳深部刺激術(DBS)の体験記のトップへ

DBS一年を経過 by あるちゃん

 私の手術は左側が、4月24日に終わりましたから、もう一年たちました。
薬は一年目と同じ
ネオドパストン3、ドミン3、アーテン2、ランドセン1、カバサール2、
そして血圧降下剤ノルバスクが1。
 社会への活動は、イラク問題での平和行進にも二度参加、
今春の市議会議員の選挙懇談会へも行ってますから、まず、普通でしょう。

(1)入院生活
(2)脳外科の世界へ
(3)全部忘れて夢の中
(4)手術は成功・・・その後が大変。
(5)K大付属病院北病棟4階
(6)南病棟
(7)K大脳外科でのDBS
(8)DBSの成果 new

(1)入院生活
 最初から自分の入院生活はレポートにして発表するつもりだったので、ノートにメモを取り続けた。ある程度たまるとワープロに入れる。それでも時間が余る・・・なんて贅沢・・・と思う。ただワープロはパソコンよりうるさい。特に、印刷時は、とても同室の方には迷惑とあって個室をお願いした。
 個室というのもいろいろあって各病院かなり違う。まずKK病院では8千円の部屋と7千円の部屋がある。どう違うかというと、お客様用のソファが違う。勿論上のほうがゆったりしていてフカフカで大きい。機能的には電話、冷蔵庫ありの、トイレはなしだからあまり差はない。最初は8千円の部屋だった。G先生がお越しになり、満足そうにそのソファに腰をおろされた。
 部屋が落ち着くと、主人がワープロとスタンドを運んできてくれた。この病院の照明はメッチャ暗いのである。ただでさえ、病院嫌いの主人は腰が悪い事もあって、私の入院の思い出というと病院の廊下をワープロを運ばされた・・・の一言である。
 そして、この生活の中に血液検査、CT、MRI、神経内科医によるパーキンソン・テストが入る。これは、「あなたの名前は」に始まって「今日は何日ですか」など、ついで動作テスト。手をグー・チョキさせたり足踏みしたりという、皆さんも何回かされているテストである。神経内科医のH先生の要望でビデオを撮ることになった。
 何回も階段を歩く。薬を減らしているので大丈夫かと思ったが自分でも意外なほどスラスラ歩ける。先生の話では、緊張するとパーキンソン病患者の症状は軽くなるとか・・・。こうして、KK病院にも慣れてきたところ、脳外科のメッカ的なU病院へ一週間の検査入院だという。
KK病院から一時間足らずで早春の京都の町を走り抜けて、U病院に着いたのは7時半だった。入院するには非常識な時間だけど、ともかく私の身柄を責任者に引き渡して、自分の勤務先の奈良に急ぎたい主人はそんな事はお構いなしに、ことを進めてしまう。U病院の皆様、あの節は本当に失礼致しました。
 U病院は確かに、看護師さんはよく気がつき優しく、先生たちは研究熱心、患者の訴えにはよく耳を貸す。患者さんは、この部屋では全員・・・つまり3人が重症患者で・・・ポータブル・トイレを使用する。食事も全員ここで食べるという。個室をとっても、ここではワープロもしないので相部屋で行くことにして、まず取材だが、室の3人はあきらめて、食堂に行き友達を作ることにした。食堂の雰囲気は悪くはない。私以外の人も友達探しをしているようだ。そして間もなくできた友人がNYさん。目の大きいのんびりした雰囲気の方である。友達が出来た!とルンルン気分の私の所に、その夜こられたK先生、短い時間なのにテキパキと診断をされ、「外科手術の経験がある在院患者さんがいますよ」と名前まで教えてくれた。さっそく、バラ組(U病院のパーキンソン病棟では各室花の名がつく。私のいる部屋はアザミ)へ。その部屋に行くと、NYさんがチョコンと、となりのベッドでテレビを見ている。だれが司会するともなく、手術の話となった。
 「脳外科手術」の賛成者はだれもいなかった。
 結局、U病院では目新しいことはなく、受けたテストも、KK病院と全く同じなので気分的に疲れ果て、沿道の桜、桜の中をKK 病院に帰った。病院でも大きな桜が満開であった。
まる2日かけて、U病院のレポートをワープロで仕上げた。G先生はほめてくださったが、H先生は私が幾つか間違えているとおっしゃる。まず、パーキンソンテスト、これはU病院が先、青と赤で描く生活表もU病院が先、いずれもかつてH先生が、U病院で学んだものである。
 わたしが、ワープロを打っているのを面白がって看護師さんたちが寄ってくる。

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(2)脳外科の世界へ
 まず執刀者であるG医師の手術理由書を紹介させてください。
(1) パーキンソン病は原因不明の疾患でL-DOPAが有効ですが、病気を治す薬剤ではありません。
(2) L-DOPAの大量長期投与は不随意運動、幻覚などの副作用が生じます。
(3) 鎌田さんも長期投与のためにL-DOPAを大量投与のステージに入ってきており、量を減らすと運動能力の低下、量を増やすと不随意運動の増強という病態になっております。
(4) 薬剤治療だけではコントロールが困難な状態に対して視床下核への深部脳刺激電極挿入は有効です。
(5) この治療は固縮の低下に有効で、L-DOPAを減らすことにより不随意運動にも有効です。
(6) 鎌田さんは左側に強く不随意運動、右側に強い固縮(現在は左右ほぼ同じですが)が見られますので、まず、左側の視床下核に電極を挿入します。
(7) 手術は朝9時半に手術室に入ります。おそらく夕方5時には手術室から出てくる予定です。
(8) 本体(generator)は来週に左胸皮下に挿入する予定です。
(9) 合併症として500人に1〜2人脳内出血が起こると報告されております。そのうちの30人中29人は2〜3週間で出血が吸収され無症状で、残り1人は有症状になると報告されております。
(10) こうした危険性を防ぐために途中で手術を中止する場合があります。
(11) 反対側手術は5月中に行う予定です。(5月17日の予定)
 以上で、手術の名称が「定位手術による深部脳刺激電極挿入術」、その必要性は「パーキンソン病が薬剤ではコントロール不十分となったため」麻酔は局部麻酔で行う。
この文書にもとづいて手術が行われた。

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(3)全部忘れて夢の中
 この最初の手術の前に、私はなるべく多くの事を、次の方のために覚えておこうと思っていたのが、全然、何も覚えておらず恥ずかしいな・・・と思ったあたりから調子が狂いだし、今度は珍しく熱を出し、おかげで一週間、次の手術が遅れてしまった。原因不明の熱は37.2〜3度位なのだが私の平熱が35度だから、本人にはショックで、大事を取って次の手術まで、ずっと点滴があり、看護師たちは点滴の針を入れるのに苦労していた。でもこの延期のおかげで彼女たちとも仲良くなれたし、何より私の体力がついた。
 4月24日、手術。26日、H先生がスイッチを入れる。その瞬間?何もありません。すごかったのは1人になってからです。まず歩きました。部屋のなかをグルグル回り、ついで廊下に出て歩くと、足取りの軽さ・・・これは、よく分かりました。それから、『手』の動き、手首の回転、それから親指と人差し指で丸を作る。何回でもやれます。右手で膝をたたき左手で膝をさする。あんなに出来なかった動作が、全部出来る。自分では治った! と思いました。家族とか、近所のみなさんとか・・・要するに、手術関係者以外の方から見ても、手術は大成功のようでした。

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(4)手術は成功・・・その後が大変。
 5月2日退院。胸の抜糸を、お願いしても外科の先生たちが受けてくれない。内科のH先生が「僕がやりましょう。」と、受けてくださった。私は舞い上がっており、周囲のことなど,まったく見えない。
 でも、この日ほど自分が輝いていた日はなかったと思います。薬の量はかなり減らしていました。エフピー、コンスタンは手術前に減らしています。.問題のネオドパストンも4錠にドミンは3錠に減らしました。これは、すべて入院していたから減らせたので、こうして日常生活がはじまってしまうと薬はなかなか減らせない。
5月13日依然として舞い上がったままKK病院に入院した私と主人に、脳外科のG先生より「秋まで手術は延期、残された右側は淡蒼球を手術したい」という、ショッキングなお話があった。とりあえず、神経内科医のH先生に相談、退院する。H先生の母校K大付属病院でもDBSをやるという。早速そちらに申し込んだ。

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(5)K大付属病院北病棟4階
 この話は、昨年夏のことである。私は最初4人部屋に入ったので20歳代の若い患者さん2人がいた。どちらも名前は「まきこ」さんという。若い2人のいる病室は、くったくがなく楽しかった。でも私は仕事をするために入院したのだから、ここではできない。2日ほどして個室が空いた。
 ここの個室はかなりすごい。まずトイレ、ぴかぴかに磨いてある。それから小さいけど電子レンジ。冷蔵庫、電話、温水冷水混合水道。小さなテーブルと椅子がひとつ。そしてテレビ。これはもうどの部屋にもついている。ルームエアコン。これ全部合計して1日分、9174円なり。(消費税5%込みにて)部屋のライトもすごく明るい。慌てて家に電話した。ワープロだけ持ってきてほしい。すぐに仕事に取り掛かった。KK病院と同じで看護師さんたちが寄ってくる。
ここで、私がKK病院から出て、K大附属病院に行ったため、予期せぬ問題が起きた。それはMRIの検査をうけなければならないということで、IPG(植え込み型パルス発生器)は、既に1個、私の胸に入っている。MRI(磁気共鳴画像装置)の検査をやる間、胸の装置を根源的にストップさせることになった。この頃は、胸の装置に関する研究がまだ進んでおらず、日本メドトロニックKKの社員のかたがスイッチを止めるためだけに来てくださった。そして、これだけのことをやっても、何が起こるか・・分からないのである。H先生からは「頭のリードの方は大丈夫。胸の方も大丈夫と思うが・・もし、壊れたら取り替えられる」という全然ありがたくない保証があった。MRIは、それだけでも緊張するのに更に破裂するかもしれないなんて心理的重荷をしょってひとりであの機械の中に入るのは大変だった。タイムマシンのような暗闇の中、ガシャンガシャンと大音響。胸からパァッと光が2度程出た。後で話すがだれも信じてくれない。半年ほどして「ありえるかもしれない」と何かの拍子にH先生が言った。その頃はH先生も本気でDBSのいろいろの事例を集めていられたので、私以外にもこの経験をお持ちの方もいられるかもしれない。
私は手術のときは全然怖くなかったが、これが一番怖かった。

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(6)南病棟
 6月17日、南病棟に移ることになった。脳外科には知人もいない。かなり心細い。前から個室のことを頼んであったが、全然問題にされそうもない雰囲気だ。部屋は暗く4人部屋といったが5人部屋になる。南では、手術の前後に個室に入れ、回復の見込みがついた時点で大部屋にもどされるとか・・。
 私の手術日は6月20日である。それまで待とう・・とともかく退屈。黒いレース糸を買ってきて、それで帽子を編むことにした。どうせ、パーキンソン患者の暇つぶしである・・・・というのに、また見物の皆さんが集まってくる。
 個室が空いている・・という情報をくれたのは同室の人である。彼女は暇にまかせてあちこち歩いて、だれとでも気さくに話す、そして私のためにワザワザ見に行き確認してくれた。後に婦長さんと話すと、この個室は私のためにではなく救急患者のために空けられたもので「あなたの手術は軽いものだから、個室に入る必要はない」と断られた。私は本当に頭にきた。局部麻酔にするのは意識がないと困るためのことであって2度の手術になるのだから、そしてまた2度目の手術は全身麻酔である。廊下で私は食い下がった.。初め面白半分に見ていた火付け役の人も、巻き添えを恐れて姿を消してしまった。私の主張「緊急性の高い患者が来るとおっしゃっているが、まだ来ていないではないか。一方、私のほうは手術日も決まっており、従来の慣例どおり個室を用意するのは当たり前のことではないか。1回目は局部麻酔でも2回目は全身麻酔である。また、脳の手術でもあり、感染などで危険性も大きい。いろいろ不都合が生じた場合あなたが責任をとれるのか。」結局、緊急患者はよその病院にお出かけになりK大にはこなかった。

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(7)K大脳外科でのDBS
 いよいよ6月20日がきて、私は自分で買ってきたピンクのカーネーションを部屋に飾り(花瓶は南病棟の婦長さんが貸してくれた)とことこ歩いて医局にいった。そこでN医師とM医師が頭の準備に取りかかって鉄格子のヘルメット様のものをまず頭部に付ける。かなり重い。早くも額の両側に強くおしあてて固定させてあるピン先のあたる所が痛む。軽い麻酔でとめて、車椅子でCTの撮影に向かう。
 いざ、手術に入らねばならないのだが、CTの出来がよくない・・ということで、午後になっても事態が前に進まない.。企画の段階では、地図というより「海図」的なより立体的なものをイメージしてほしい、と自信あふれるH医師の言葉だったが、もう時間がない。最後の微調整は執刀者にまかせてほしい、というN医師との論争。私は聞いているだけでしんどくなってくる。そして、最初は「身体は大丈夫ですか?痛いところはありませんか?」と、気遣いの声をかけていた看護師さんも沈黙したまま。ともかくやろう・・ということになって手術が始まったときは、最初の麻酔はとっくに切れていた。また、私は眠ったみたい。局部か全身かという麻酔のかけ方は医者にまかせて、手術のなかで1番進歩したのは、この麻酔だと患者の立場では思う。まず、目覚めてからのさわやかさが凄い。以前は、30年以上も前の話だが、のどがカラカラにかわき悪夢の連続だった。
 この最初の手術の後、私は前歯をとばしてしまい、一生懸命探しましたが、ありません。その話をM医師にすると、ガックリされて驚いた。M医師は完全主義者で彼の縫った私の胸の傷痕の芸術的な美しさは素晴らしい。さて、この頭部の手術のあと、H先生がウェスト・ポーチを持ってきて私の腰に取り付けた。この中に電池を入れて、今度の本番(胸の手術)に備えるためである。この電池の管理者がM先生。私が寝たり起きたりするごとに電池はつけたり消したりになり、いちいちM先生は走ってこなければならない。さすがの私も気の毒で行動は控えめにする。電池番だけでなく、22日の夜は、私を連れて8階の目医者へ。そして1日1回はガーゼ交換。抗生剤の点滴もM先生。歯医者の予約もM先生。こんなに1人の人間をこき使っていいのかしら・・?
 なんとか点滴は中止。抗生剤は錠剤に切り替え。ガーゼ交換も中止していいと私とM先生の意見が一致しても、そこでストップできないのはM先生がN先生の弟子だから。その辺りが大学病院の個性である。
ウェスト・ポーチ入りの電池は、私には評判が悪い。オンにすると気分が悪くなる。でもまあ、オン時のほうが姿勢がいいかな?さあ、以下は駆け足で・・。南病棟の個室。そもそもこの南病棟、いっぱい問題があることは先生たちもよくご存じ。40年以上前の建物。そのころの医学の水準だから、今の患者とはあわない。ロッカーがあって、ベッド、椅子は1個、電話、冷蔵庫、テレビだけ。冷・温混合水道だったかどうか覚えていません。費用は1日、6117円。そのせいもあって人気は高い。
 6月23日、来客3名、私の主人とU病院での友人、NYさん親子。椅子がない。27日胸部手術2時間57分。そして一週間後抜糸。北に帰る。L先生と再会。7月になっていた。7月13日より、カバサール錠にはじめてあう。光と湿気を好まない・・という何かとても個性的なお薬。これから、私の人生を託すわけだからガンバッテネ・・と祈る気持ち。
 7月21日、私たち夫婦の結婚記念日。何十回目かわからないけど、琵琶湖のホテルで1泊。水族館へ行こうとはりきっていったけど場所が昔とかわっていた。その日にいけず翌日行く。この日は病院に外泊届けを出して行く。風は涼しくすばらしい天気であった。これから1月に1回は健康のチェックもかねてこういうメモリアルを自分のためにやろうと思う。
K大の手術のとき、好きな音楽をかけてあげる・・というのでドボルザークの「新世界」を買ってきた。M医師がせっかくかけてくださったのだが、私は眠り込んでいた。M医師もL医師もCDはもっていないという。それを私の子どもに話すと気の毒だといってCDをプレゼントしてくれた。これで私の個室は音楽とバラの花、ワープロがそろい仕事するのに理想的。L医師が今度は私の係り、もう目は治っていたが今度は歯医者で多忙になる。主人とシャガール展を見にいったのもこの部屋からだ。退院したのは8月3日。

 その後1年。10月はP病友の会から金沢までバス旅行。11月、主人と神護寺へ。12月、高槻市で孫たちのピアノ・コンサート。この帰り気分が悪くなり右のスイッチを止める。1月からパソコンをはじめた。2月、KK病院にTさん見舞い。K大病院にもいく。3月23日、イラク反戦デモ参加。4月奈良の原生林見学。5月、P病京都支部総会。

(8)DBSの成果 (7月24日up)
私がDBSを望んだ最大理由は、不随意運動の激しさから来る人事関係の混乱と、姿勢制御のわるさがもたらす見聞の狭さです。現在、私は、この両者から解放されて、それこそのびのびと思うところに行き、思う人に会い、その満足感の深さは長い間押さえつけられていただけに本当に生きていてよかった・・と例え様もありません。
残念なのは,この時が後3日で終わるのか3ヶ月続くのか、あるいは3年もつのか、全然分からないことです。
  振戦 固縮 姿勢異常 歩行 不随意運動
手術前 あり あり あり ふつう あり
手術後 なし なし なし ふつう なし
現在 なし なし なし ふつう なし

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2003.06.19 初稿

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