2003.07.01更新

脳深部刺激術(DBS)の体験記のトップへ

取り戻した笑顔 by 高橋博美

◆目次
(クリックすると同じページ内の記事に飛びます)
発症から
不随意運動
ロピニロールの治験
手術を決めるまで
入院と手術
調整
現状と問題点
終わりに


発症から

 私は、今から11年前、28歳の時に発症しました。子どもを出産、育児中とまさかこんな病気と付き合っていくことになるとは思いもしませんでした。私の場合、二人目を出産後異常な肩こりが続き、それからぎっくり腰に似た症状が出たあと、左足を引きずるようになりました。病気であるかどうか解らないまま、三人目を妊娠していることがわかり、足を引きずり、お腹をつきだし、無事次の子を出産することができました。出産後、近くの大学病院で診察を受けました。最初は、整形外科に行き、レントゲンなどの検査をしましたが、異常は見られず、神経内科に移されました。血液検査、MRIなども異常が見られず、検査入院をするように言われましたが、子どもが小さいため断り、病院を変えることにしました。次の病院では、「おそらくパーキンソン病でしょう。まだ、薬を飲まなくても大丈夫でしょう。お子さんの授乳が済むまでまちましょう。」と言われました。それから、家にある医学書を何度も読みパーキンソン病がどんな病気かと言うことは活字では理解できましたが、半信半疑で、いつかは治ると信じていました。
 離乳と同時に投薬をはじめました。薬の副作用でしょうか。食欲が落ち、体重激減から体力を奪われ、育児にも影響がでてきました。子どもが泣いていても抱いてやることができず、一緒に泣きました。パーキンソン病にいいと言われるものには何にでも飛びつき、気功、整体、自然食といろいろ試しました。しかし、どれも、気休めにしかならず次第に症状は進んでいきました。飲みつづけていたマドーパが、身体に馴染んできたころには、すでにオン・オフがでていました。それでも15〜30分で効くので、薬を飲めば普通に生活ができました。

◆ 目次に戻る ◆

不随意運動

 薬を飲み始めて2年ぐらい経ったときでしょうか。薬が効いてくると左足首が勝手に動くようになり、(不随意運動)L−ドーパを減らし、アゴニストを加えることになりました。
ドーパを減らしても、不随意運動はなくならず、年を重ねるごとに大きくなりました。アゴニストもいろいろ試しましたが、不随意運動と、日内変動はひどくなるばかりです。
私は、アゴニストの効果はわかりませんでした。薬が効いてくると、息が切れ、大汗をかくほどの不随意運動。薬が切れると全く動けない状態になりました。毎日、食事、トイレ、入浴の他は、ベッドの上で不随意運動が治まるのを待ち、薬が効いてくるのを待つ生活になりました。外出の時は、車椅子を使うことが増え、主人が一緒の時だけになりました。

◆ 目次に戻る ◆

ロピニロールの治験

 ロピニロールは海外では使われている薬です。自分自身、そして主治医も投薬治療に限界を感じていたと思います。治験に参加したいと自分から申し出ました。この治験を受けるにあたって、医師の指示によりアゴニストを減量します。今まで飲んでいたアゴニストを抜いてから、治験薬を1週間単位で増やしていきます。しかし、プラセボと言って薬の成分が入っていないものが当たる可能性もあります。
その時まで飲んでいた薬は、ドパゾール、ドミン、ペルマックス、シンメトレル、安定剤、睡眠導入剤でした。アゴニストは、効いているという感じが全くありませんでした。しかし、減量が始まると、たちまち固縮が出くることで、 効いていたことがわかりました。
 新しい薬が身体に入る不安で、軽いしびれを感じたり、頭痛がでたりしました。16週間という短い治験が終わりました。
治験を始める前と違って、治験の終わりは、とても楽でした。ロピニロールを減らした分、元のアゴニストを戻していきました。ロピニロールがすっかり抜けた頃、私はほかのアゴニストよりずっと自然に、穏やかに副作用もなく効いていたことに気づきました。しかし、ロピニロールは、当分発売されないと聞きました。とても残念です。なぜ、発売までこんなに時間がかかるのでしょうか。

◆ 目次に戻る ◆

手術を決めるまで

 治験を始める前に1つの決心がありました。この治験の結果次第では、手術を考えようと言うことです。主治医(担当医)が変わるたび「手術も考えておいてください。」と言われてきました。また、何人かの友人が自分の担当医に、私の症状を話すと「手術をすれば、不随意運動はとれるでしょう。」と言っていたそうです。治験が、私の症状を変えるきっかけになるような気がしてました。治験が終わった頃から、1日のうち動ける時間は数時間になってしまい、もう、手術しかないと思いました。友だちの通っている病院では、説明会も行われていると聞いたので、とりあえず、話だけでも聞こうと、先生と連絡を取りました。私の主治医は、DBSを受ける患者には、ほかの病院を薦めていました。しかし、「おはなしをきいていらっしゃい。」と紹介状を持たせてくださいました。私は、質問したいことをメモして出かけました。資料と、実際の患者さんのビデオを見せていただきました。メモは必要がないくらい、詳しく説明を聞くことができました。それでも、いざ手術となると不安も、恐怖感もなくなりません。でも、もう私には、方法はありませんでした。「一番早いところに入れておいてください。」と手術の予約を入れて帰ってきました。その後、手術説明会に参加してもう1度話を聞きました。手術説明会は、神経内科の先生と執刀医である脳神経外科の先生によって、より詳しく具体的に知ることができました。それでも、暫くはインターネットで、DBSについて調べたり、主治医に相談してみたり、持っている資料を何度も何度も見ては、逃げ出したい気持ちで一杯でした。その反面、決めてしまったのだから1日も早く終わってしまえばいいのにとも思えるようになってきました。12月もあとわずか、と言うときにいよいよ手術の日程が決まりました。
その頃の体調は最悪で、激しい不随意運動と固縮とで、家族との会話もほとんどなくなっていました。 入院の準備もほとんど終わり、手術も目の前に迫りました。
私は、手術そのものよりも、自分がいない20日間、子どもたちは大丈夫なのかと言うことの方が心配でした。
入院当日の朝がやってきました。笑顔で行って来るね。と言うつもりが、涙で一杯になってしまいました。

◆ 目次に戻る ◆

入院と手術

  入院前に、検査のために病院へ行き、胸のレントゲン、血液検査、採尿、心電図をとりました。
入院1日目・・・問診など
入院2日目・・・散髪、記憶のテスト、MRI
  どれも不随意運動で身体が動いては困るので、薬の切れた状態で行います。薬の時間を考えなくてはいけない。首の固縮が強くてつらかった。
手術当日、本当なら、前日の夜で止めなくてはいけなかった薬ですが、夜の固縮が強くでるので、朝の7時まで飲ませてもらいました。その薬も、8時30分、部屋を移動する頃には切れていました。頭に固定具を付けた時、自分ではそれほど緊張はしていないと思っていたのに、貧血を起こしてしまいました。頭に局部麻酔をしたので、痛みを感じることなく、CTを撮り、10時頃には、手術室へ入りました。名前の確認をすると手術台へ移り、導尿のためのカテーテル、血圧や脈拍をはかる器具を付けられ、目にはテープのようなものを貼られました。頭皮を切られるときは、麻酔が効いていても、痛みを感じました。頭蓋骨に穴をあけるために頭皮をクリップで止めていたのでしょう。この痛みは鈍く外されるまでありました。頭の骨を削っているときの、何ともいえない音と、ガリガリと削る感触は、自分が自分でなくなってしまうような恐怖感もありました。
針を頭に通し始めました。痛みも、刺されている感じもありません。針の位置や深さに反応するモニター画面、音を診ながら先生達の声が聞こえます。「これから電流を流します。しびれとか何か変な感じがしたらいってください。」と言われました。固縮から腕にしびれが出ていて、電気でしびれているのか、どうなのかよくわかりませんでした。電流を流すと、顔の筋肉がつれたり、足の筋肉がつれてねじれるような感がしたり、いつもより強い痺れを手や足に感じました。何度か、電流を流す針の場所を移動させて、「○ボルト、どうですか?」 「ちょっとしびれます。」「これなら・・」「大丈夫です。」などと会話を交わしながら、反応を見て、位置を慎重に決めたようです。
片側が終わると「大丈夫ですか?今なら少し体勢を変える事ができますよ。」と先生が言ってくれました。私が、一番気にしていたのは首の固縮でしたが、それは全然平気でした。動かすことのできなかった腕のしびれと、頭痛がありました。看護士さんが、腕を少し揉んでくれました。頭痛は、頭の中に空気が入ったものによるらしい。
「急ぐからね。」と反対側に移りました。
最後は縫合です。「もう終わったから寝てしまってもいいですよ。」と、先生の声が聞こえました。縫合は、麻酔が効いていたはずなのに痛みを感じました。私は、眠くなってきました。ストレッチャーに移され回復室へ運ばれました。その時、両親と夫が、そばに来てくれましたが、暫くそのまま寝てしまったようです。どのぐらい時間が経ったのでしよう。目が覚め固縮もなく体は軽く感じました。でも傷口が、痛くて思うように動けません。寝返りも傷口を気にしながらゆっくりしてました。目が覚めたあとは、眠れずとても長い夜でした。朝食が運ばれて来ました。食事はおいしくいただきました。数日はこのまま動けると思っていました。投薬は、ペルマックス100μgを1日3回と言われました。昼食が、終わって大部屋に移りました。暫くすると、固縮が始まりました。だんだん身体が、固くなり、動けなくなってきたのです。
私は、信じられませんでした。手術が終わったら、動けると聞いていたからです。すぐにナースコールを押して、先生を呼んでもらいました。先生は、「L−ドーパはつかいたくない。」と言われました。しかし、固縮が強く、私はもう我慢の限界でした。夜には、ドーパも加える事になりました。電気の刺激も1日早くなりました。頭から出ているリード線をカセットウォークマンぐらいの大きさのボックスにつなげ電流を流します。その発信器は、まとめて丁度収まる袋に入れられ、ベッドを離れるときは持ち歩かなくてはいけません。電気を流しているのにドーパは、増えていきました。入院時に4錠だったドーパは多いときには5錠にもなっていました。自分でも気にはなっていましたが、先生にも薬が多すぎると言われました。それでも、薬が効いてくると出ていた不随意運動は気になりません。オン、オフはまだありました。私は、不随意運動がなくなっただけでとても楽になりました。オフ以外の時間は、本を読んだり、手紙を書いたりしていました。頭の手術の1週間後、胸に発信器を埋め込む手術です。執刀医は、1時間ぐらいで終わる簡単な手術と言っていました。通常は、発信器を鎖骨の下に埋め込むのですが、私の場合は乳房の中に入れていただきました。まだ若いので、胸の傷が見えにくいようにとの先生の温かい配慮でした。麻酔が効き私はぐっすり寝てしまいました。「高橋さん。目を開けてください。終わりましたよ。」と声は聞こえます。目を開けようと思っても、瞼が重くて目を開けることができません。私は、少し息苦しさを感じました。意識がはっきりすると呼吸も落ち着きました。私はこの後、個室に移してもらいました。胸に入れた発信器の傷口と、頭から首を通って、胸につながっているリード線がつっぱって痛くてたまりません。
痛み止めは効かず、筋肉注射をしてもらいました。痛み止めの効果が切れてくると、涙が出てくるほどの痛みが、しばらく続き、何度ナースコールをおしたことでしょう。先生は、「退院したら大丈夫かな?」と心配されていました。抜糸も終わり、退院の日が来ました。調整が終われば家に帰ることができます。
私は、すっかり帰り支度をすませ、調整の時間になるのを待ちました。メドトロニックの方が、アタッシュケース(電圧を調整する器械)を持ち、脳神経外科の加藤先生が先に来ました。診察中だった神経内科の藤本先生も調整のために来てくれました。
「薬が切れてしまうと、足に力が入らなくなってしまうので、可能な限り電圧を上げてください。」と願いしました。薬の切れた状態でもとても楽になり、子供たちの待つ家にやっと帰りました。寝返りはできる、オンオフもなくなり、ドーパは、1日1錠から1錠半になりました。体が軽くて、うれしくてたまらず、じっとしていることができません。家族に文句を言われながらも、夜中に今までできなかった家の中の片づけをしました。ところが、退院して1週間ほどたつと左手にねじれるような痛みがでました。主人に腕を揉んでもらっても楽になりませんでした。

◆ 目次に戻る ◆

調整

 退院後はじめての電圧調整です。調整をするときはドーパが切れた状態で行います。刺激が入っていても、私の体は固くなり、全くといっていいほど動けなくなりました。痛みが出たということで両側0.1ボルト下げていただきました。たった0.1ボルトの電流を変えただけで、寝返りができなくなり、ドーパも2錠から2錠半飲まないと思うように動けなくなりました。
調整のたびに、電圧を上げたり下げたり、何回か繰り返しました。
主治医は、ドーパを飲まずにすむようにしたいと言います。私もそのことばに答えようとがんばりすぎたのかもしれません。薬の効果が落ち、手術前のように動けなくなりました。このときは、電圧、レート、パルス、だけでなく極性の組み合わせを変えてみましたが、刺激の強さによって話しがしにくくなったり、筋肉がつれたり、しびれが出たりしておどろきました。改めて電圧の調整の難しさを感じました。私の場合は、薬を無理に抜くのではなく電気刺激の効果を最大限に生かし、不足する分を薬で
補うという形をとるのがよいのではないかと感じています。
 今考えると退院から1ヶ月を迎えた頃が、一番動揺し焦りを感じていた気がします。調整は時間をかけ、ゆっくりと少しずつ進めていくもののようです。

◆ 目次に戻る ◆

現状と問題点

 今は、気持ちは前向きです。なぜならば、会話は楽にできるようになったからです。でも、期待していた結果とのギャップにとまどいは隠せません。 手術によって、なくなると思っていたオフはまだあり、、薬が多いときには不随意運動も出ます。手術をしてから薬の効きが悪いときにすくみと軽い振戦が出るようになりました。体のバランスがくずれやすく、体が傾くこともあります。耳の後ろのリード線のジョイント部分、鎖骨の上をまたいでいるリード線はいまだに気になります。
 発信器の電源を切ったままリモコンを忘れて出かけてしまったことがありました。
薬だけの時は、切れてくることも分かりましたが、刺激の場合、薬の効果がなくなると突然動けなくなります。
 私の大好きなCDショップ等の盗難防止装置は、真ん中を通過しないと電源が切れることがあります。
 原因は分かりませんが、朝起きたら電源が切れていたこともありました。
 何年か後には、発信器の電池交換の手術をしなければならないでしょう。
薬の調整と電圧の調整の両方が必要です。
手術を受けた患者すべてが、別人のように症状がなくなるとは限りません。逆に今までなかった症状が出る場合もあります。DBSは病気を治すものではないからです。
ただ、入院前と比較し、車いすはほとんど必要なくなりました。
動けない時でも会話ができ笑ったりできること、家の中の仕事がこなせること、そして母親として子供と目を合わせ話を聞いてやれることなど、生活の質は飛躍的に向上したと思います。

現在飲んでいる薬はECドパール3錠、ペルマックス5錠、ドミン3錠です。
これから、半年、1年、2年と未来のことは分かりませんが、希望を持って少しずつ進もうと思っています。
 DBSは病気を治すものではありません。明るい希望を持たせてくれるものではありますが、厳しい現実に直面する場合もあることを忘れないでいただきたいと思います。考えている方は、主治医とよく相談してから決めて欲しいと思います。

◆ 目次に戻る ◆

終わりに

 この病気になってから、今日まで家族に支えられて生きていました。また、この病気になったことで出会えた方々にも、助けられてきました。
私は、この病気であることを認めたくありませんでした。薬を飲み続けることにも、ものすごく抵抗がありました。薬を飲まないと体は、たちまち固くなり、動けなくなります。このような症状を抑えてくれる主な薬は、L−ドーパ、アゴニストと言われる(パーロデル、ペルマックス、ドミン、カバサール等)です。私は、その薬に助けられ、そして、その副作用に苦しめられました。
体が動かなくなると言うことは、健康体の人にはとても理解できないことだと思います。私は、夫に、両親に子供たちにこの病気のことをどう伝えてきたのだろう。常に頭の中では、動こうと信号を送っています。「動くぞ!」と頭の中で思っても、体が言うことを聞いてくれないのです。だんだん薬も、体調によっては、効いたり効かなかったり、と日内変動が出てきました。子供たちには、「薬が効いたらね。」と、動けるようになるまで何もしてあげることもできませんでした。いつの間にか、子供たちは、文句も言わず、私が動けるようになるのを待つようになりました。薬が効かず、動けないためにあきらめることも、自然に身につけたような気がします。それが子供たちにとってどんなに不自然なことかと思うとこころがいたみます。
それから、私は、薬の副作用で、不随意運動が出ます。体は、自分の意志とは、無関係にくねくね、ばたばたと動きます。家から外へ出ると、他人の突き刺さるような視線を感じます。それでも、子供たちは、一緒に歩いてくれました。私の大事な子供たちにありがとう。
そして、私を丸ごと支えてくれたのは、夫でした。いつもそばにいてくれました。そして、私の体のことを理解しようとしてくれました。私の体調の悪いときは、疲れて眠い時も、微睡みながら、体を揉んでくれます。私は、その夫に「あなたは、私の病気のことを知ろうとしない。患者でないからわからない。」と何度責めただろう。それでも、私を支え続けてくれた夫にもありがとう。いつも私は、一人ではなかったことにやっと気づいた気がします。

◆ 目次に戻る ◆

2003.06.01up

DBS専用掲示板へ
感想をお聞かせください


Apple Homeへ