病気を恥じること      by あーもんど

私は長い間、病気を隠していた。
隠せるだけ隠そうとした。
また、それができる状態が長く続いた。30年近く。

「隠したい」と思った気持ちの奥には、病気を恥じる心があった。
歩けないのは、まともな人間ではないという考え。
その考えは私の中にもあったのだ。

そのことに気がついたのは10年近く前、症状が隠せなくなってきてからだった。
家事がひとりではできなくなってきたその頃、手伝ってくれる人を頼む決心がつかなかった。

一人で家事ができなくなったのを認めることにも勇気がいる。
自分の中に、病気を恥じる=自分自身を恥じる気持ちがあるのを認めることにも勇気がいる。

それは自分にできないことがあり、大きな弱点を抱えていることを人目にさらすことになる。
このことは、とても自尊心を傷つける。

だけど、人の目にさらしたくない弱点を抱えているのが私なのだ。
それを恥ずかしいと思っては、私は生きていけない。
私自身を恥ずかしいと思うのは、自分で”病気を持つ自分“を差別していることになる。
病気の自分を恥じる私自身こそ、恥ずかしい存在ではないのか。

病気だということは恥ずべきことではない。
私は、与えられた条件の中で精一杯に生きている。
それは、人間にできる最善のことではないのか。
私は恥ずべき存在ではない。
そう思おうと、私は決意した。


病気が私を覆っていても      by あーもんど

1965年に17歳で病気になってから42年が過ぎた。
健康だった遠い昔が夢のようで、この辛い病気を抱えてよく40年もの長い間、やってこられたものだと思う。
自分でも信じられない。

殊に診断がつくまでの8年間は、まだ子どもといってもおかしくなかった私には、本当に辛い絶望的な日々だった。
夜は「明日目覚めたら歩けますように」と祈りながら眠りにつく。夢の中では私はすたすたと歩いていたけど、翌日になるとやっぱり歩けなかった。
とはいっても、その頃は朝、食事をして学校に行くために家を出て5分ぐらい歩いたところで歩けなくなる。そこまではふつうに動けた。
睡眠効果がまだあったのだ。
それは10年近く続いたと思う。25歳で入院した頃も、朝、目覚めたばかりは歩けたから。
でも、それ以外のときは、すごく歩きにくいのを必死で足を運んでいた。
脚を前に出そう、出そうと思わなければ歩けない。

整形外科めぐり

もちろん医師に診てもらった。
最初は近所の家庭医。
家庭医は井の頭公園近くの整形外科医を紹介してくれたが、しばらく通っても歩けないのには変わりがなかった。
ただ、その整形外科医は私のふくらはぎに触って、「こんな固い脚は診たことがない」と言った。
その整形外科医はまた別の、中野坂上にあった整形外科のクリニックを紹介してくれた。
そこにも長い間通った。扁平足用の中敷を作ったけど、やっぱり歩けるようにはならない。

最初の家庭医に行ったあと、慶応病院の整形外科にも行った。
大学1年(1966年)の6月、18歳だった。
そこでは教授の診察の前にインターンが私に問診をした。
やさしいインターンだった。
「脚が前に出ない」と訴えた。
「僕も疲れると脚が前に出なくなりますよ」と言われて、教授の診察を受ける前に帰ってきてしまった。
当時、私も母も医師から「なんでもない」と言われると、ほっとして「そうかもしれない」と喜ぶ気持ちもあった。
一時的であっても、なんでもないのだと思いたかったのかもしれない。

歩行だけでなく、ほかの部分も動きにくくなっていたのだろうけど、歩けないのが一番辛かった。
授業のノートの字はみるみる下手に乱暴になり、ときどき思わぬところにペンが動いた。
私の大学時代は、歩行困難を抱え、下を向いて脚を一歩一歩進めるのがやっとという状態だった。
喫茶店に入ると、もう立ち上がって歩くのが嫌になった。
3年のときは、もう学校に通うのに疲れ果てていた。
慶応のほかにも大きな病院で診てもらい、入院もした。
ひと月近く入院して、脊髄が癒着していると言われたことがあった。
あれは本当だったのだろうか。
それ以来、そんなことを言われたことはない。

安藝先生と出会う

少し光明が見えてきたのは1969年に「神経内科」の存在を知ったときから。
大学4年の体育の授業を免除してもらおうと大学の診療所へ行った。
診療所の医師は私の歩き方をひと目見て言った。
「放っておいてはいけない。
すぐに神経内科へ行きなさい。
親は何をしているんだ」
と言って、虎の門病院神経内科宛に紹介状を書いてくれた。
私の母は医師のおしまいの言葉に憤慨しつつも、二人ですぐに虎の門病院へ行ったのだった。
「神経内科」...初めて聞く言葉だった、1969年のこと。
神経内科は1964年に確か新潟に初めて開設されて69年当時、東京には東大、慶応、虎の門くらいしかなかったのだと思う。
私が診てもらった整形外科の医師たちは、名前くらい知っていたろうに、なんで私にそこへ行くように言わなかったのだろう。

虎の門病院の神経内科部長は当時安藝基雄先生だった。
安藝先生は40歳代、童顔に白髪、自然ににじむ威厳があった。
入院し検査の結果は、やはり原因不明。
違ったのは医師の人間性だった。安藝先生は「原因はわかりませんでした」と言った。私のパジャマのしみを例にとって(先生はちょっと皮肉なところがある)、原因がわからないのはどうしてかを、きちんと説明なさった。
私はそのときから、安藝先生を心から信頼し尊敬してしまう。
先生のすばらしさ・温かさが瞬時に私に伝わった。

今、思うと、私が先生を生涯の医師として選んだのだ。
大げさに聞こえるかもしれないが、医師は患者を一人の人間として待遇することで、病気に打ちのめされた患者の人生そのものを救うことができるのだ。実際、私は何一つ希望がなく自暴自棄といえる状態から、安藝先生によって、徐々に、生きるためのプライドを取り戻したように思う。
それから30年近く、安藝先生は私の主治医だった。短期間離れたときはあったけれど、“私の先生”は安藝先生だった。安藝先生が退職されたときは、孤児(みなしご)になったような気がしたものだった。

患者の思い

先述したようなことは医師に限らないかもしれない。
入院中に若い見習い看護婦がシャンプーをしてくれたときのやさしさに心和み、また別の看護婦の、「甘えているから歩けないのよ」という言葉に、悲しい思いをした。
 ときどき病気の人にお説教をする人がいる。まるで病気だということが人間として劣っていることの印かのように。
患者の家族に向かって「患者は楽をしたがるから、甘えさせてはいけない」という言葉を体操のボランティアから聞いたことがある。
病気なのは、人間として劣っているからではない。
自分に欠けていることが大きければ大きいほど、人は考えるようになる。
私たちの病気は人の助けが必要になるが、助けが必要なのは恥ずかしいことではない。
健康な人の中には、「人の手を借りなければならない=恥ずかしいこと」と単純に思う人もいるかもしれない。
どんなことが本当に恥ずかしいことなのか、私たちほど深くは考えないのではないかしら。
患者が楽をしたいと思うとしたら、体が動かないのがそれほど辛いということなのだ。
そのボランティアはそういうふうに考えたことがあるのだろうか。
「動く」という、人間が本来持っている能力を発揮するのに、こんなに苦闘しなければならない私たち患者の方こそ、人に教えられることがあるように思う。

自分が患者だと、いろいろなことが見えてくるように思う。
人が「病気」を、「難病を抱えた人」をどう思っているかが分かるようになる。
ほかの人が患者と、病気だということを頭に入れて、なおふつうの対等な関係を保つのは至難の業かもしれない。
症状や副作用は表に出るけど、その奥にある一人の人間としての「私」を見てくれる人たち、彼らは病気と病気を持つ人を混同しない。
私にとって、病気が全てではないことを分かってくれる。
パーキンソン病で覆われていても、その内側には、ひとりのふつうの人間がいる。
このことを分かってもらいたい。

ディスキネジア(不随意運動)

薬をのみだして5年くらい、気がつくと体をゆすっていた。そのころLドーパが、単剤で粉末3グムから100mgの錠剤1日4錠に切り替わったころだった。
(1978年)一日に4回、1錠ずつのんでいた。
以後、ときどきジスキネジアは、私を苦しめた。
くねくね動く体を止めようとしても、止まらない。
薬の効果が終わりかけるころに現れた。
いつ出るかは人によって違うらしい。
最悪だったのは、夫の親戚の結婚式。
動けなくなると困るという思いでほんの少し早めにのんだのが裏目に出て、ディスキネジアがひどくなった。
同じテーブルの人は何も言わなかったし、夫もそのことにふれなかった。
パーティの間中、動きは止まらず汗びっしょり、ジャケットまで汗でぬれた。
落ち込んだけど、ほかの人は私を見て「ああ、病気なんだ」と思っただけなんだと自分に言い聞かせた。
ディスキネジアは人目につく。
しかし上記のような場合を除いて、緊張や興奮で多少足先が動くくらいのは、それほど苦痛じゃない。医師はディスキネジアをとても気にするが、患者にしてみれば、動けないことの方がよほど辛い。

「ONのときのすくみ」と「転倒」

「すくみ」ほど悪い意味でこんな画期的な症状・副作用はないように思う
これはオン(薬が効いている)のときのすくみのことで、これが起きる前は、薬が効いている限り、一人でどこへでも行けた。
私は軽井沢にも、夫の単身赴任先の敦賀にも一人で行った。
ところが、発病30年を過ぎ(今から10年前(1997年))からオンのときのすくみがおき始める。
ベルや電話の音にすぐに(立って)歩き出そうとすると、気持ちは前に行っているのに脚がついてこない。
ひざを床にぶつけて前に転ぶようになった。
これも同じ原理だと思うけど、なにかに急に気づくとか、なにかが急に心に浮かぶと倒れる。
どうも外側(音・視覚)・内側(心・想念)からの刺激があると、体の動きがそれについていけなくて転んでしまうようだ。
とにかく「予想外のこと」「急な変化」に対応できない。
コンピュータがフリーズするように、まさに体がフリーズする。
できるだけ予測して行動するしかないのだけど、生活では、ものごとは突然起きる。

急な変化といえば、電車に乗るとき降りるとき、タクシーから降りるときなんかも危険なときだ。
突然の緊張によっても脚がこわばり動けなくなる。
この駅で降りるんだと急に気がつく、それに動きがついてこれない。
それで転ぶ、今度は転んだショックで起き上がれない。
電車が駅を出てしまうと、緊張が緩み、やっと立ち上がって歩けるようになる。
主治医はこの症状を「オフ・ジストニア」だという。
アメリカのリーバーマン医師が書くところによると、すくみがジストニック(=腿やふくらはぎ、足の筋肉の痙攣と関連して起きる)なら、患者一人一人に合わせて最善の対処法を考えなければならない。(治療が難しいということだろう。)
すくみが不安・パニックと関係して起きるのはノルアドレナリンなどドーパミン以外のシステムの関与が考えられる。
つまりどうして私のような症状が起きるのかは、まだわからないということだ。

転んだときの人の対応

私が転ぶと私もショックだけど、周りの人もびっくりする。
気遣ってくれるのはうれしいことだけど、私を無理に引っ張りあげようとするのはちょっと困る。
一番望ましい対応は、私が落ち着いて立ち上がれるようになるのを待ってから、手を貸してくれることだ。
転んで体が緊張していると、人一人の力では引っ張り上げられない。
出来たとしても、すぐまた倒れてしまう。
人が立ち上がるには、体がリラックスしている必要がある。
外国人はこういうとき、”May I help you?” と尋ねるが、こういう対応が一番助かる。“相手の様子をよく観察し、相手に最も必要な手助けをする”のが本当に助けるということだと思う。

ちょっと話は逸れるけど、福祉サービスも、対象者が本当に必要なことを手助けしなければ意味がないと思う。
常々感じる疑問は、日本の行政は何故、対象者に真っ先に「あなたには何が一番必要なことか」を尋ねないのだろうか。

話を転んだときに戻すと、一番心外な反応は、病院の中で転んだとき、近くにいた医師も看護婦も「大丈夫ですか」と言うだけで手を貸そうとする気配すら感じなかった。こういうことに慣れっこになっているのかも知れないけど、病院だからこそ病気の人を気遣う心が大切なのにと悲しくなる。

こういう患者の思いは、症状が進んで口が回らなくなり言葉が不明瞭になると、周りの人に伝えられなくなる。そして何でも話すことができる初期の経験のない患者には、症状の進んだ患者の体験や気持ちは分からない。
私のような、症状は進んでいても、まだ話せるし文章も(コンピュータで)書ける患者は、こういう患者の思いを周囲の人や医療関係者に伝える義務があると思う。

2007年 秋

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  2008.02.28 file作成:raisin